発生のメカニズム

邪魔なものの存在感と末路

どかして良いと思う心理

一つ前のエントリーでアナタの部屋に「ウンコ」があったらどうするかと問いました。強烈な悪臭を放っており、邪魔な存在である「ウンコ」自分で片付ける決意が固まらず、どうにかして片付けたい思いだけが募ります。

 

引き続き「ウンコ」が誰かの手によって片付けられる過程とよく似たイジメが発生するメカニズムの一つである排除に至る過程を見ていきましょう。

集団化

自分の手は使いたくないけど片付けたい。そんなときどうするか。同じようにイヤな気持ちになっている仲間を募るんです。イヤな気持ちを想起させる対象に対して陰口を叩いたり、文句を言ったり。イヤな気持ちにさせる対象を罵倒し、イヤだということを主張します。そこで勇気のある仲間が名乗りを上げ、片付けを行って称賛を得て部屋から無事に「ウンコ」が消え去りました。
なんとなく想像ついていると思いますが、ウンコはイジメられてる側の立場のヒト、片付けを行う集団がイジメている側の立場のヒトです。不快の象徴である汚物は消え去るのが正義であり、片付けられる運命にあります。

 

排除の論理が働くと冷静な反論が出てこない限り、ウンコが途中でキレイで芳しい花に変わっても、一度不快だと認定したモノの排除は止まりません。少なくとも、ある一つの目的に対して集まった集団は、目的を遂げるまで解散することはありません。団結して仲間内の結束を強め、目的に対しての反論を許さない状況に陥ります。振り上げた拳は振り下ろす先が無くなると別の標的に対して攻撃するまで止まりません。本当は腕を下げられればいいんですがね。残念ながら熱狂している最中に興醒めな行為を行うと対象が変わるだけです。

 

これがイジメられているヒトを助けると身代わりになる理屈です。目的に集まることの考察は別の機会に任せるとして、イジメが連鎖するのは排除してもよいという正当化が起こったあとになります。イジメの発端はイジメている側が先にイジメられてる側に不利益をもたらされた[気がする]ということになります。人間は感じ取ったことが真実だと勘違いしがちです。これが情報の発信者と受信者の関係をややこしくし、何もしていないのに…というよく聴くフレーズが生み出される遠因になっています。
「上手く説明できないけど気に入らない」というのは情報を処理出来ずに言語化し切り出せないということと同義になるのではないでしょうか。そして、言語化できないヒトたちが集まって空気のようなものを形成し、怨恨・怨嗟により敵の排除を目的として集団が形成されていくのです。

領域の侵害

邪魔なモノを排除したくなるのは何故でしょうか?
今回例えに出した話では、「アナタ」の「部屋」という自分の「領域」に異物が紛れ込んでしまったため「片付け」という行動に及ぼうと至ったわけです。これが、「他人」の部屋であったり、「道端」すなわち「公道」であったならば結果は多少なりとも違ったはずです。アナタの部屋だからアナタが仲間を募りました。これが、アナタ以外の誰かの部屋だった場合はどうでしょうか?アナタと同じ体験を共有していたとしたら?概ね似たような結末に至りそうなことは想像に難くないと思います。

 

このように、ヒトは誰しも自分の延長と認識している領域に異物が侵入したり、害をもたらす敵が侵入したと認識した瞬間から排除へ至るか引っ越す等のFightかFlight、つまり闘争か逃走を選択せざるを得なくなってしまうのです。これは人間の機能的にほぼ不可避です。脳の情報処理速度と、反応速度に追いつくことができれば可能となりますが、訓練法を知っていても労力に見合うだけの見返りがあるかといえば疑問符が付きます。この結論に至るために参考にした文献もありますが、ここでは一旦そういうものだと覚えておけばよいでしょう。

 

自分ではないものを何故自分の延長線上にあると認識してしまうのか?これは仏教で言うところの執着だったり、カウンセリングで言われる自他の境界と呼ばれるものであったりしますが、この境界が曖昧になっていると感情的になりやすくなったり、思い通りにならない相手にイライラしたり逆に傷つきやすいHSPを患ったりと、共同体で暮らすには多少なりとも難易度が高くなる傾向があるように思えます。単純な善し悪しで判断したくなりますが、アドラー心理学でいえば課題の分離に該当する問題に近しい関係があると言えます。

 

自他の境界がはっきりしていないと何が起こるかと言えばご存知の通り人間関係のトラブルに巻き込まれると考えられています。
当事者へ許可や了承、同意なく行われる行為全般はいわゆる「おせっかい」と呼ばれます。出しゃばって世話を焼きます。そして恩着せがましく見返りを要求します。こういった正義を持つ人は自身の内にアンガーマネジメントで言うところの「べき論」を持つようになり、次第に怒りやイライラが溜まりやすい性質を持つようになります。

 

日本人は気質的に素直に「助けて欲しい」と声を上げることを避けたがります。迷惑を掛けてはならないと教育されるからです。みんなが辛い状態で自分だけ助かる・得をするといった行為を極端に嫌います。自分が出る杭になることを極端に恐れます。このあたりのお話はあまり大っぴらに公表出来ない話になりますので、興味を持たれた方は別途提供予定のコンテンツをお待ちください。思考の癖が根底から覆るような内容になっています。
長くなりましたがまとめると、自分の延長線である領域を侵犯した敵に対しては断固とした反撃を行うということです。

排除の正当化

自他の境界がある程度定まっていたとしても、それは自分にとってであり、他者にとってではありません。他者が持っている境界線の認識は外部から観察することでしかアタリをつけられないのです。よく言われるパーソナルスペースは個人差・個体差があり、イヤだと感じる距離や領域は人それぞれ違います。イヤだと思われてしまったら、不快だと感じられたらちょっと気になるウンコになってしまいます。

 

相手に排除してもいいと思われてしまったら次に排除の正当化が始まります。自分の方が正しいと主張するのは相手が間違いであると主張していることになります。領域の侵入であれば領域から出ていくことであるし、気分を逆撫でしたのであればそれに対する謝罪であります。この辺りはもう少し掘り下げて説明する回を設けますので楽しみにお待ちください。

過激化していく集団

排除の意思決定が集団の中で正当化されると集団の敵化が進み過激化していきます。最初は無視や陰口や悪口のような軽いものから始まり、孤立化させて様子見を行い、助けに入る集団がないと直接攻撃に移っていきます。物を隠す、いわれなき罪を着せる、直接的な暴行、脅して金を強請る等精神的にも肉体的にも辛い状況を作り出され被害は拡大するばかりです。こじれにこじれるともう救済措置は自死を選ぶか権威によって保護されるか所属先の共同体を変えるかくらいしか対処法はなくなってしまいます。

 

ここで事件が発覚して振り返っても、被害を受けた当事者には計り知れない負担が掛かります。回復するにしても数年〜十数年、ヒドイときには一生モノの傷が残ります。キッカケは些細な出来事ですが、これまで解説してきたように一つ一つのイベントフラグは単純なモノです。過激化して最終フェイズを迎えるならば、どこかのタイミングでフラグを折ればそこには至らないということです。次回からはどこに気を付けていいのか?に焦点を当てて解説していきたいと思います。

次回もお楽しみにしていただけたら幸いです。

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